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アイドルについてぼちぼち

Vtuberと歌とトークと応援と

タイトル詐欺になりそうなので初めに書くと、私はVtuberの歌にはまるで興味がない。この記事は、私がVtuberを、にじさんじを見るに当たって歌と配信とショービジネス、全肯定とファンのあり方について最近考えたことの整理的なものだ。暇な人はちょっとだけ付き合ってほしい。


まず、この記事を書こうと思ったのはこの配信を見たからである。別に見なくてもこの記事は読めるが、結構深い話(本人はちょくちょく誤解されそうだけど悪い意味じゃなくて、と話している)をしているので作業のBGMにでも見てほしい。

https://youtu.be/RUg_rpw7okY


突然だが前提として、私のにじさんじ内での推しは葛葉と黛灰である。ふたりともゲーム実況がメインのライバーで、今ソロ配信を生で見ようと思うのは主に、ほとんどこのふたりだ。他にも好きなライバーはいるが、可処分時間の関係もあってアーカイブを概ね1.5倍速で消化しているので、リアルタイムで見たい+暇というのが勝らないとなかなかソロの生配信に赴かないのである。ライバーをそれ以上の娯楽として見ると多分生活がものすごいことになる。

そのふたりの何が好きかというと、断然トークである。かなりタイプは違うが、私は二人ともユーモラスで、ずっと聞いていたい、ウィットに富んだ話し方だと思っている。雑談もゲーム配信も好きだ。

先に紹介した黛の配信で彼が言っていたのは「例えばライバーを集めてやりたい企画をやるとして、俺が企画したとは(責任を取るためにも)言わせてもらうけど、俺がライバーとしてそこに参加して喋る必要が必ずしもあるとは限らない」という旨だ。彼は、彼が喋る存在としてそこに居ないほうが面白くなることもある、自分とその人たちでやりたいゲームではなく、その人たちがそのゲームをやっているのを見たいことがあるけれど、ファン感情としてそれはどうなのか?さみしいのか?やっぱり「いないの?」と言われてしまうのか?ということをこの雑談で彼のファンに問いかけていた。

結論としては私はさみしいし、いないの?と思う。(ただ、もし行われたとしても、昨日の雑談のことも、普段の彼に垣間見える「面白さ」に対する考えも理解しているつもりなので、勿論表立ってコメントするようなことはしないだろう)理由は至極単純で、私は彼の”喋り“が好きだからである。彼の昨日の主張としては「パフォーマーの立場だからこそ企画できるものがある」「俺が参加するしないに関わらず、“黛灰の作品“だから」「俺を見て楽しんでほしいんじゃなくて、俺と一緒の景色を見て楽しんでほしい」というあたりにかなりのものが詰まっているだろう、と個人的には要約して捉えている。

しかし、彼の求める理解に反して私のようなリスナーも多くいて、さらにはこの時彼が反応を求めていたのもあって、コメント欄にかなり「やっぱり喋ってほしい」という思いが寄せられていた。長文コメントが増えていく様子は面白かった。この面白いはインタレスティングのほうで、その中に彼の主張を理解し、納得しつつも、同じ考えになることはできない、という反応がちょくちょく見られたからである。

アイドルにせよライバーにせよ、個人を売る商売の買い手にはいわゆる「全肯定オタク」がつきものだ。「○○が楽しいのが一番だしそれが見たいよ」「やりたいことやって」などというコメントを見るたびすごいな、と思う。全肯定と揶揄されがちだが、確かな愛の形だと思っている(たしかにベクトルがものすごいので時折悪い方向に作用することもあるし、リスナーは結局出されたものを享受するしかない存在だというのもある)。

先の配信で私は、黛の主張に対して、失礼ながら上記のような全肯定コメントが流れまくるものだとばかり思っていた。しかし匿名とはいえハンドルネーム付きで、「納得したが同じ考えをもつことはできなそうだ、でも応援するよ」という理性と感情を分離したコメントが流れていく様子には素直に感心したのだ。Vtuber文化の成熟と、黛がそれをアンチコメントだと思わない(傷つかない)ことへの信頼を感じた。(にじさんじ内だと緑仙などが企画系のライバーとしてあげられるので、以前にもこういうコメントの現象はあったかもしれない。私が初めて見たというだけだ)

ライバーが好き、と言うにあたってライバーの全てを肯定する必要が無いというのは考えてみれば当たり前なのだが、よきファンでありたいというのもまたファン感情である。自分の主張をしつつも、ファンがもつその矛盾を噛み砕こうとしてくれるライバーがいるんだな、というのが冒頭に紹介した配信を通して気づいて、思ったことである。

よきファンであるのも自由だし、これは好き、これはあんまり、と口に出すのも(誹謗中傷でないかぎり)自由だ。それを見てどう行動するかもライバーの自由だ。今まで非公開のアカウントで行なっていた主張に対しての枷を外してもらった気がする。


そして歌についてだ。私がライバーに求めるのは上記の通りほぼ完全にトーク力なので、そんなにみんなが重要視することも不思議なのだが(黛は多分歌とトークが別方向のエンタメだという点においては私と近い考えを持っていて、先の配信で黛が歌うくろのわをそういう意味で別世界だと表現していたのだが、ネガティブな意味で捉えるリスナーもおり驚いた)歌は素人のするライブショービジネスとして簡単すぎるきらいがある。にじさんじのライバーが歌の素人というわけではなく(実際プロでもないだろうが)一介の学生でも箱さえ借りれば歌ってお金を取ることができる。ただトークオンリーのショービジネスは芸人や落語家でもないとなかなか難しい。それだけだ。トークのうまいライバーに提出期限を破るほど気が乗らない歌を歌わせて何になるというのか、と考えた時、ファンサービス以外の要素ではライブができる(布石になる)から、と考えるのが自然であると思う。にじさんじのライバーの活動は多岐にわたり、ライバーとファンを大勢集めて楽しむ、となった際にトークより歌の方が適しているのだ。それは間違いない。

フォロワーの受け売りだが、私は葛葉のことを神が「(ゲームをしながら)喋ること」に特化して作った人間だと思っている。事実として時間にはルーズであり、生活能力もほぼ皆無、お金には目がない。大切なコンビの記念配信もすっぽかす。仲間に迷惑をかけないでほしいと思う(叶くんなどはそう思うことに対して「葛葉にそういうところは求めてない。勝手に僕の感情を決めないで」と話していた。ソリ)それでも私は彼の配信の、人をどうしようもなく惹きつけるトーク力が好きだ。両立する感情なのだ。それでいて歌には興味がない。これもまた同時に持つ感情である。今まで負い目に感じないこともなかったのだが、やはりそれでよくて、無理にいいファンぶる必要もないんだとストンとした。

 

Vtuberはできることの幅が広いからこそ、声が届いてしまうからこそ、不自由なところもあるのだと思う。けれど、やはりそれ以上に自由だ。自分なりに楽しむ、という理想は月並みな言葉ではあるが難しい。今日は、その姿勢への一歩として、自分の応援スタイルに自信を持てるようになった記録と、黛灰の配信に対する感謝としてこの文を公開する。ご欄いただきどーも。